もし、上司に不正行為を指示されたら従うだろうか。拒否すれば報復を受けるかもしれないし、告発しても握りつぶされるかもしれない。
不正に手を染める
38歳の俊哉は税理士事務所に勤務していた。入ったばかりのころは所長の厳しい指導を受け、仕事を覚えていった。それからしばらくたったある日、所長と一緒に高級料亭に出かけた。そこには顧客企業の社長がいた。料亭の帰りに、俊哉は所長から「これからは、彼らのような高収入の顧客を専門に仕事をしてほしい」と言われた。俊哉は、初めて所長に実力を認められた気分になった。
その後、俊哉は今まで働いていた事務所とは離れたマンションの1室で仕事をすることになった。所長には「今日からここで節税を担当してほしい」と言われた。それは不正に手を染めることを意味した。俊哉は、その仕事をするようになって高額の報酬をもらうようになった。また、顧客とゴルフに行ったり、高級料亭で食事をしたり、高級クラブで遊んだりするようになった。
そんなある日、所長が急死した。事務所は息子が引き継いだ。息子は不正をしない方針で、居場所をなくした俊哉は退職することにした。独立して、しばらくは以前の顧客の仕事をしていたが、だんだん少なくなっていった。
子供の頃からのコンプレックス
俊哉は人当たりがよく、事務所を訪れる客に笑顔で対応していた。また、彼にはマイクロバイブレーションという症状があった。マイクロバイブレーションとは、ストレスなどによって手や指先が震える症状のことだ。自律神経が興奮して震えてしまうのだが、原因は分かっていない。
俊哉は子供の頃からマイクロバイブレーションがあり、コンプレックスだった。人に手や指先が震えるところを見られたくなかったので、学校に行くのも苦痛だった。人知れず悩んでいたが、誰にも打ち明けることはなかった。このコンプレックスを抱える自分を雇ってくれた所長には恩を感じていた。
不正を生む3つの条件
アメリカの犯罪学者、ドナルド・R・クレッシーが提唱した「不正のトライアングル理論」によれば、「動機」「機会」「正当化」の3つの条件が整えば不正が発生する。俊哉の場合、「動機」は、自分は選ばれたというプライドと高額の報酬である。「機会」は仕事に専念できる場所を与えられたこと、「正当化」は所長に命令されたことだ。
なぜ、事務所の従業員たちは不正を告発しなかったのだろうか。もしかしたら、彼らはジェノヴィーズ症候群(傍観者効果)になっていたのかもしれない。ジェノヴィーズ症候群とは、普段は善良な人たちが、卑劣な行為を見てもそれを止めようとせず、傍観者になってしまうことだ。あるいは、自分が告発したら家族や自分の将来にも大きな影響が出ると恐れ、知らないふりをしていたのかもしれない。
強すぎた自制心
所長はもともと正義感が強く、自制心の強い人間だった。その所長が不正行為をするとは、誰も思わなかった。自制心が強すぎたので、今までの緊張が切れて不正行為に向かったのかもしれない。
それまでの所長は仕事を優先した生き方で、妻からは嫌われていた。家庭内別居状態だったが、不正行為で得たお金で家族にプレゼントをするようになると家族の態度が変わった。所長は妻や子供たちがうれしそうにしているのを見て、幸せを感じるようになった。
●文/河田俊男(かわだ としお)
1954年生まれ。心理コンサルタント。1982年、アメリカにて心理療法を学ぶ。その後、日本で心理コンサルティングを学び、現在、日本心理相談研究所所長、人と可能性研究所所長。また、日本心理コンサルタント学院講師として後進を育成している。翻訳書に「トクシック・ピープルはた迷惑な隣人たち」(講談社)などがある。